- レポート
「迷う」ことを迷わない
- 2024.4.2
佐藤利香
3月に開催されたならまちワンダリングのキックオフイベントに、スタッフとして少し関わらせていただきました。任されたのは小山田徹さんによる展示「にぎにぎ&とぎとぎ」の案内と、総合受付のスタッフです。ならまちワンダリングの様子をほんの一部見ただけですが、参加者と話し、一緒に遊びながら、考えたことや思い出した気持ちがたくさんあります。
「ワンダリング」という言葉には、「迷う」「さまよう」「放浪する」などの意味があるようです。迷うのは決して悪いことではないと分かってはいますが、最近の私はなるべく迷わない道を選んでいるような気がします。どんなことにも目的を見出そうとするし、ゴールがあるならなるべく最短距離で行きたいと考えてしまう。「迷う」ことを迷っている、といいましょうか。意味もなく行動することに少し勇気が要る状態です。だからワンダリングと聞いて一瞬、ドキッとしました。
ならまちワンダリングの場で最も驚いたのは、子どもたちの反応です。「にぎにぎ&とぎとぎ」は石や木と思うままにふれあえる空間ですが、子どもたちはあっという間に馴染んで石を見つめ、木を研ぎ続けていました。石は大きさごとに並べ替えたり、様々な形のものを組み合わせて人型にしてみたり、おにぎりみたいな形のものをずっと握っていたり。木は磨くとツヤツヤになると分かれば、どこまで磨けるのか夢中で試していました。
子どもたちは目の前にある自然の一部に没頭し、自分なりの遊び方を開拓しては楽しんでいました。意味も目的も全く考えず、「迷う」ことを一切迷わなかったのです。放浪する楽しさを再発見し、意味がない行動にひるむ必要はないのだと改めて感じました。
また、子どもを連れてやってきた家族の様子も印象的でした。子どもが自分だけの遊びに夢中になっている姿を優しく見守り、誤ったら怪我をしそうな危ない瞬間だけさっと手を差し出す。協力をせがまれて、テーブルの端から反対の端までひたすら石を運び続ける。木を研ぎ続ける子どもの横で、同じくらい夢中になって別の木をピカピカにしている親もいました。子どもの遊びに余計な口出しはせず、意味もなくさまよっても大丈夫だよと伝えているように見えました。子育ての経験がないため想像は難しいですが、子どもと暮らすって放浪の連続なのでしょうか…。子どものワンダリングは、「迷う」ことを許し、一緒に楽しむ他者の存在があってこそ生まれるものなのだと気づきました。
そういえば、参加者とワンダリングしながら、ふと自分が子どもだった頃を思い出しました。あの時の自分は泥団子を作るのが大好きで、公園の砂場で土を握っては磨き続けていました。もちろん意味も目的もありません。ただ土と砂を触っているのが楽しかったことだけは覚えています。他にも友達とごっこ遊びに夢中になっていました。木の枝は魔法の杖、葉っぱは食事に使うお皿など…。白くて丸い綺麗な石は卵に見えたため、大事に持っていたら恐竜か妖精が生まれてくるんじゃないかと思って大事に握りしめて家に持って帰りました。親はひとつも叱らず、「ここに置いておくと何か出てくるかもね」と庭の隅に土を軽く掘ってくぼみを作ってくれました。結局何も生まれてきませんでしたが、今も同じ場所に石は埋まっているはずです。外だけでなく家の中にも、自分が持ち帰ったがらくたを飾る場所がいくつかありました。昔の自分はそれだけ、寄り道と無意味な収集が好きで得意で、そして家族は自分のその行動を許してくれていたのだと思い出しました。そうか、あの時の自分は意識せずともワンダリングしていたんだ。
人は誰しも放浪していく中で、ひょんなことから生き延びる術を身につけているのかもしれません。それは結構、すごいことだと思います。意味もなくさまよっていることが、長い時間をかけて知恵や記憶になっていくのではないでしょうか。今は何も考えず、目の前のものに夢中になっていようと思えた時間は、とても幸せでした。
キックオフイベントの総合受付は、ならまちでも特に人通りの多い商店街の中にありました。そこには藤浩志さんの作品である、おもちゃでできた鹿が置かれており、自由に触ることができます。大人の肩ほどまで高さがある白い鹿の姿に、前をたまたま通りかかった人は驚いていました。特に子どもたちにとっては、見上げるほどの存在です。中には鹿の足部分にあるおもちゃのボタンを、いつまでもポチポチと押し続けている子どももいました。「にぎにぎ&とぎとぎ」もならまちセンターの前にありましたし、他のイベントもまちなかで行われています。地元の人にとっては、いつも歩く道の脇でワンダリングが行われている状態でした。これからもまちのどこかで、誰かが何かを始めるのだと思います。見かけたら気負わず、道草を食うような気持ちで覗いてみたら、面白いかもしれません。